なぜ「水星の魔女」がトマトを使いたがったのか (他雑感)

 |・ω・`)  7-8月が忙しいので、ぶつ切りで考えたこと追加。

 

 

 水星の魔女を見終わって、トマトの意味ってなんだったんだろうかと考えていたところ(12話だけのためにトマトを持ってきたにしては使われ過ぎてたので)、ほかにもトマトをメタファーとして使ってたアニメとして思い出したのがブレンパワードでした。ブレンパワードではトマトは、なんとも言葉にしがたいのですが、いわゆる愛というか、偶然できた愛、つまり家族の結晶というか、オーガニックな愛というか、そういう意図のメタファーとして使われていました。

 

 |・ω・`)  まあブレンパワードはトマトというか農作物を「社会性・身体性を取り戻す」

     というニュアンスでも使っていて、これはシン・エヴァンゲリオンでもありました。

 

 で、トマトがいくつかの印象的なシーンに出てくることで有名なブレンパワードですが、内容としてはイデオンとダンバインとVガンダムの設定をごちゃまぜにしたストーリーで、かつその3つの作品を、基本的にはすべて否定するという内容です。またこの作品、ものすごくざっくり言うと「家族の再生」を主テーマの1つにしていて、どうも水星の魔女のトマトはこれをイメージしているのかなと妄想。

 

 |・ω・`)  こんなこと考えてたら、ブレンパワード、3日で全話見直してしまった

    仕事忙しいのに… ;つД`) 眠い

 

 あと、ブレンパワードの伊佐未 翠(主人公の母親)が、ダンバインのチヨ・ザマ(主人公の母親)とデザインがそっくりなんだよな。この辺やっぱり意識してるんだろうな。どっちもひどい母親だし

 

 |・ω・`)  ブレンパワードの伊佐未 研作(主人公の父親)が比較的まともなのは

     ダンバインのシュンカ・ザマ(主人公の父親)が比較的まともだったからかな?

 

 

 

 7/16の岡田斗司夫ゼミにて、岡田氏がアートについてとても面白い考察をされていました。(リンク)

 この考察、すごく簡単に説明すると、アートというのは自分を映す、変な形をした面白い鏡だと。なの

で、人によってはとても面白く映ることもあるし、全くよくわからないものが映る場合がある、と。

 

 この考察を聞いたとき、とても得心しました。といいますのは、私は確か中学生の時、国語のテストでなにかの小説の一部を読まされて「このとき主人公がどのように思ったかを書け」というような問題を出された時、「読んだ人がこれまでどんな経験をしてきたかによって変わると思うので答えられません」と解答欄に書いたところ0点になって、先生に対し憤った記憶があります。ざっくりいうと、こんなものに正解なんてないだろと思っていたわけです。

 

 なので、岡田氏の解釈はとても理解できました。つまり、アート作品というのは発信する側の意図にかかわらず、それを見た人の自分自身を映す鏡なのだと思います。なのでそのアートを鑑賞した人がどのようなことを経験し、どのようなことを思っていたかによって、その作品の解釈はそれぞれ違うのだと思います。この考えをとてもわかりやすくたとえ話として言語化してもらったなぁ、と感心しました。今後はこのたとえ話、ぜひ使わせてもらおうと思いました。

 

 

ミリオネ・レンブラン「人の数だけ正しいがあるもの」

(「機動戦士ガンダム 水星の魔女」最終回より抜粋)

 

ヤン・ウェンリー「ひとつの正義に対して、逆の方向に等量等質の正義が必ず存在するのではないかと私は思っていますので」(中略)

ラインハルト・フォン・ローエングラム「正義は絶対ではなく、ひとつでさえないというのだな」

(「銀河英雄伝説」風雲編より抜粋)

 

 

 

 宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」が公開されて、各所で賛否両論入り乱れていますが、私の感想といたしましては、「ああ、やっぱりこの人、徹頭徹尾上から俯瞰してて、絶望してるんだよな」と思いました。これと対局(もしくは同質)にあるのは、もしかしたら富野監督の「逆襲のシャア」なのかも知れません。

 

 「逆襲のシャア」を語る前に、まず宮崎監督と富野監督は仲がいいということ(押井守監督の証言)、そして宮崎監督が「富野はおもちゃ屋の手先になって才能を無駄にしているバカだ」と言い、それに対し富野監督は「宮崎さんみたいな立場の人にこの気持ちはわからないでしょう、僕はこの環境で働かなきゃならないんです」としか言えなかったというエピソードがあることを説明します。

 

 これを前提として、「逆襲のシャア」のラスト近く、アムロとシャアの掛け合いのセリフを並べると、なにか違うものが見えてきます。

 

シャア「貴様こそ、その力を無駄に消耗してると何で気がつかん!」(中略)

シャア「愚民共にその才能を利用されてる者が、言うことか!」(中略)

アムロ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」

 

 |・ω・`) このセリフ、シャアとアムロはどちらも富野監督の一面で、

     いわゆる富野監督の中で2つの人格が戦っている、という解釈が主流なんだけど、

     このシーンだけはシャア=宮崎監督としても通じるかも知れない。

 

 そしてラスト、敵も味方もなく石ころ(アクシズ)を押し返すシーン。(SF的に押す方向が逆だろというツッコミは置いておいて)これはまさしく「君たちはどう生きるか」で、石を積むのを継ぐことを拒否した主人公の行動と、ある意味対局(もしくは同質)をなすのではないでしょうか。

 

 |・ω・`) これは私の勝手な感想・解釈だけど、宮崎監督は問題に対し上からものをいう作風で、

     富野監督は問題を提起した後、一緒に悩んでくれる作風なんだよね。

 

 

アムロ 「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるから、いつも過激なことしかやらない。しかし革命の後では、気高い革命の心だって、官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って、世間からも政治からも身を引いて、世捨て人になる」(「逆襲のシャア」より抜粋)

 

 |・ω・`) ♪~ああ ガンダムの輪から 抜け出せなくて~ いくつもの罪(ガンダム)を 繰り返す~♪